2015年09月03日

「見る」という哲学

鈴木理策の写真展 「意識の流れ」を見てきました。

や、全然知らない人なんだけどね(笑)

僕が「こう見た」ということより、世界が「こうあった」というのを撮りたい。
っていう、インタビュー記事の一言を読んで、
「あ、見に行こう」
って、思って。


写真ってさ、
たとえば、お母さんが子供を撮る時、絶対、子供にピントが合ってるじゃない(笑)
「これを撮りたい」
「世界を私はこう見ている」
っていう「意味」が写真にはあると思うんだよ。
でも、そうじゃなくて、あるがままの世界を撮るって、
パンフォーカスで、画面の隅々まできっちり写すってことじゃなくて?
それ以外にどうやって??


最初に展示されている、熊野で撮影された作品・「海と山のあいだ」を見た時の、
その疑問に対する1つの答えは、


kumano_01.jpg


ずーっと、じーっと、1枚の写真を見ていてごらん。
熊野の風景を撮影しているんだけどさ、
それはシャッターを押した一瞬の風景なんだけどさ、
その写真の中に、ものすごく長〜い「時間」を感じないかい?

たとえば、岩。
たとえば、海。
たとえば、滝。


彼は写真を撮る時、
ぱっと三脚を立てて、
最初に気になった部分にピントを合わせたら、
あとは風や光をきっかけにシャッターを押すんだって。
構図を決めたり、シャッターチャンスを待ったりはしないんだって。

ずーっとファインダーを覗いていたら、
そのうちにぼーっとしてきて(笑)
自分なのか、対象なのか、いまがいつなのか、
わからなくなりはしないか?
自我の喪失と、永遠との邂逅。
世界と融合したその瞬間にシャッターを押してるのと違うかな。



次の部屋には「水鏡」というシリーズが展示されてた。
足元には映像作品。
まるで水たまり?池?を覗きこむようなしつらえ。
これが、私にはおもしろかったんだよね。


ぼんやり見えている光が、


kagami_02.jpg


だんだんピントが合ってきて、


kagami_03.jpg


「ああ、こういう風景だったのね」ってわかる。


kagami_04.jpg




「ああ、こういう風景だったのね」っていうのはさ、
つまり意味づけでしょ。

大人になったら、意味なしに世界は見れなくなっちゃうんだけどさ、
もしかしたら、赤ちゃんとか動物とかの目には、
世界は光でしかないんじゃないか、と思っちゃって。
意味を排除したら、光しか残らないんじゃないか、とか。



最後の部屋に展示されてた、雪や桜や花の写真もそう。


sakura_02.jpg


ピント=意味づけなんだとしたら、
それは大人になった人間が勝手にやってることで、
本来の・本当の世界ってヤツは、
うすらぼんやりした光でしかないんじゃないの?


sakura_01.jpg



だいたい雪なんて、水だしね。
たまたま条件が合ったから、雪みたいな恰好をしてるけど、
もとは水だからね。
水っつったら、カタチなんかないしね。
その伝で言ったら、桜だって、もとは土と水と・・・、なんだかわかんないものだよね。
見えてないところに、本当の世界があるのかもね。

見るって、何なの?





なぁんて、頭の中をぐるぐるさせながら、出口に向かう、と。


kaze_01.jpg


見えないものを、見せてくれるものでもある。
写真。








9/23まで
東京オペラシティのアートギャラリーで。

あ、写真撮ってもいい写真展です。
興味のある方は、カメラ持参で(笑)





posted by ゆきお at 01:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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